天気予報のためか10名の参加となったが、殆どが初登城の方々で「ぜひとも来たかった所」など期待度の高い声にガイドの気持ちも高ぶる。今回は追手道、望笙峠など主要なポイントを経て片桐且元生誕地の須賀谷集落へ下るルートで、一部急峻な道もあるためあまり利用されていないコースであることも今回のハイライトである。さてその望笙峠では思わぬ出会いにためらった。ここに織田信長実母の土田(どた)御前を顕彰する会の一行がおられ、いわば宿敵との出会いに複雑な思いを禁じ得なかったが、お市様の城でその娘の淀殿の生誕地でもあることに思いを馳せ気を取り直して、金吾丸、番所址へと進む。虎御前山を見下ろすスポットでは迫りくる織田方の軍勢の圧力を感じ、続いて石垣跡や土塁などの城内の各所の堅い守りを偲ばせる造りや繰り広げられたドラマなどを解説しながら通過する。中丸で昼食を済ませ、京極丸から山王丸虎口へ至り激戦を偲ぶ。ここからが須賀谷に下るコースとなり、一部に設置されたロープにつかまるなど足元に十分注意を払いながら進むと絶景ポイントの岩場に到着し、その眺めを堪能する。そこから須賀谷の集落に降りる。ここは古くからの温泉場としても知られる隠れ里の雰囲気がある小集落だが、片桐家にまつわる史跡や神社を護持、顕彰されているのです。ここでの話題は、且元が秀吉亡き後の豊臣家存続に努力するも、逆に淀殿に疑われ両者は離反することになる歴史の展開です。参加者の半数の方は茶々たちも浸かったかもしれないこの温泉目当てでもあり、ここで別れた残りの一行は河毛駅を目指し予定通り帰着、解散となりました。
10月26日(土)JRハイキング (大河ドラマで話題沸騰の深坂古道) 紫式部が詠んだ「からき道」を往く
前回7月に続き今回も30名を超える参加者で賑わった。このコースは新疋田駅を起点に近江塩津駅までの深坂古道を踏破し、紫式部の越前国府下向とは反対方向の都への帰路道を追体験するものです。敦賀市疋田地区は古代の愛発(あらち)の関が置かれた所と伝わり、江戸時代には川船を利用した運河が造られ、今は復元されたその流れを観察できます。また戦国時代には朝倉方の出城「疋壇城」があり、ここは最終的には信長により壊滅されたのですが、まずこの城跡を訪ね苔むした石垣、土塁や多数の巨石を見て激戦を偲びました。一旦駅に戻りここで昼食とし、ここから深坂古道へ向かう。途中にあるのが紫式部と万葉歌人笠金村の歌碑。紫式部の歌碑には、輿をかつぐ男たちが山道に愚痴をこぼしたことから世渡りの難しさに重ねて諭したものと解説されています。さらに山道を進み深坂峠を越えると「堀止め地蔵」とも称される深坂地蔵堂に至る。ここは平清盛の命により敦賀と琵琶湖を結ぶ運河の掘削が計画されたものの、大岩に突き当たり工事を断念したことに由来すると伝わります。また「塩かけ地蔵」とも言われ旅人が塩をかけて道中の安全を祈ったとも。境内は地元の人々によりきれいに整備された霊地です。問屋跡などの街道の名残りを見て、古道を抜け立ち寄るのが元峠茶屋の西村家。ここの庭園は江戸時代初期からの歴史があり、現ご当主により園内を案内していただくご厚意に預かり、歴史街道を満喫した一行はここから路線バスで近江塩津駅へ向かいました。
10月20日(日)JRハイキング (観音まつりにお会いできるホトケ様)伊香の霊場巡りで湖北の秋を楽しむ
前日の大雨がウソの様に晴れ上がったこの日は、「第40回観音の里ふるさとまつり」とあって朝の高月駅前は大勢の参拝者でいっぱいの賑わいです。大半の方は周遊バスか巡回バスによる霊場巡りなのですが、その中でテクテク旅の巡礼には12名の参加者で静かに出発しました。このコースは伊香三十三ヶ所観音霊場のうち、7から9番と11番の4か所の札所巡りです。最初の7番大円寺(高月観音堂)も地元の世話方により護持されてきたお堂で、千手観音様について丁寧な説明をしていただきました。8番宇根冷水寺の11面観音座像は「鞘仏」という胎内仏を宿される珍しいお姿で、胎内仏資料館ではその数奇な由来のお話を伺いました。途中、大杉のある春日神社に立ち寄り神仏を守ってきた地域の話題にも及び、西阿閉(あつじ)の9番竹連寺では集会所をお借りしての昼食タイムの後、ご本尊のやはり数奇な由来の説明を聞き、境内の無患子(むくろじ)の実に興味が向くと、「もってけ、もってけ」の言葉にポケットにしまう。いよいよ最後の11番西野正妙寺は11面千手千足観音様とあって、巡礼の足にも力がみなぎり巡回バスや自転車組にも引けを取らずに到着。薬師堂での解説には、琵琶湖畔の埋没集落伝承の一つ、阿曾津千軒の話にも及び仏様と集落の古い歴史を偲びました。ここから高月駅への帰路になるのですが、ご開帳されていない10番札所や神社、古墳などを見ながら無事5時間の巡礼旅を終えることができました。
10月13日(日)JRハイキング(好評おとちの岩窟秋コース) 敗者石田三成が再起をかけて潜伏した岩窟を訪ねる
毎回人気のコースですが、前回4月は雨のため参加者が半減、今回は秋晴れの下30名の参加者で賑わいました。中には前回に続く参加のリピーターの方や前日の行市山に続く連続登山の強者の方も。今回の行程は木ノ本駅から徒歩で登山口を目指し、まず浄信寺を経て通り抜けるのが「アットリトンネル」。難読地名の漢字を避けて最近はカタカナ表記にもされています。約1時間で登山口に到着し、注意事項などを確認していただく。そこから尾根道を登ること約1時間半で目的地のおとちの岩窟に到着。この岩窟の入口は狭く、ちょっとした冒険心が必要ですが、ほぼ全員の方が岩窟の中に入って三成公が一時潜んだと伝わる雰囲気を追体験し満足感に浸っていただいた。昼食を済ませ、帰りは林道を目指して下山。己高山寺院群の跡などを確認し、鶏足寺から石道寺の参道を通り井明神のバス停へ向かう。ここは来月には紅葉で賑わうルートなのですが今は青葉の静寂に包まれていて、これもまたなんとも言えず良い雰囲気だ、と参加者からの感想が漏れ聞こえる。予定のバスで15時30分過ぎ無事木ノ本駅へ到着。今回は少し長い距離となりましたが皆さん快い疲労感で帰途につかれました。
10月12日(土)JRハイキング 柴田勝家方佐久間盛政の砦跡へ 賤ヶ岳古戦場の最高所、行市山を訪れる
長かった猛暑も過ぎて涼しい秋晴の朝を迎えたこの日、25名の参加で木ノ本駅を出発。 行市山への登山口は毛受兄弟の墓所「毛受の森」です。ここは地元集落の墓地でもあり、旧余呉町のシンボル木のトチノキが植樹され、足元には落ち葉とトチの実がいっぱいの中、登山の行程、毛受兄弟物語りの概略などを解説して入山。登山道は大体緩やかな稜線で、中谷山砦跡、別所山砦跡などを見学して進むと、設置されたロープにつかまりながらの急坂の難所が1か所あります。ここを注意深く登りきると最初のビューポイントに。伊吹山、小谷山を遠望し、その手前には田上山、堂木山など秀吉方の砦跡を見て戦場に想いを馳せる。やがて佐久間盛政砦跡で郭、堀切などを確認し行市山山頂に至ると再び戦場一帯を見下ろす景観に歓声が上がる。ここで昼食、記念写真を済ませ、下山はうって変わって足取りも余裕をもって進む。途中の立ち寄り所は林谷山砦跡。ここが毛受兄弟達が立てこもって秀吉方の猛攻撃を食い止め、勝家脱出の時間を稼いだ身代わり大作戦の激戦地で、兄弟の忠臣振りにいたく感動した秀吉が手厚く葬らせた墓所は元はここにあり、その後毛受一族を家臣に迎えたと伝わります。柴田方砦群は主戦場が余呉湖畔へ移ったこともあって守備隊の伝承などに不明な点が多いものの、最近は戦国ファンの注目度も高まり、どうしても来たかったという神戸や東京からの参加者もあって帰路のバスは満足感一杯で木ノ本駅に帰着しました。
10月5日(土)JRハイキング (秋の風情を現地で楽しむひととき)栗狩り体験で秋本番を実感しよう
厳しい残暑も一息ついた気配の河毛駅に定刻に集合の筈が、京阪神方面からの下り電車が1時間遅れとのアナウンス。やむを得ず上り電車の参加者だけで出発して、翌日に控えた小谷戦国まつりの準備に忙しい小谷城戦国歴史資料館前広場を見学後、戦国ガイドステーションで下り電車の参加者と合流して昼食。ここが巨大兜モニュメントのある小谷城址入口で、私達ガイド協会の事務所がありますのでさりげなく日頃の活動を紹介して小谷寺へ向かう。この寺は如意輪山小谷寺が正式名称で、ご本尊は如意輪観音様ですが日頃は秘仏として拝観できないためガイドの解説で我慢していただく。そのためご開帳時にぜひ拝観したいとの声も。森閑とした参道脇には少し遅れのヒガンバナが満開の彩を添える中を一旦河毛駅へ戻る。そして本日のメインイベントの栗園へ。落ちるイガに当たらないよう、下を向いて落ちているイガを拾いましょうと言うアドバイスで「20の瞳」が一斉に輝く。はじけたイガから少し顔を出す茶色の栗を次々と取り出し、「栗ご飯に」「栗きんとんに」など思わず言葉が出、賑やかな栗拾いの醍醐味を満喫し、手に手にお土産を持って満足一杯で駅に帰着、解散となりました。思わぬアクシデントのスタートで一部行程変更がありましたが、好天に恵まれ楽しいハイキンができました。
10月1日(火)地元再発見の会参加者募集のおしらせ
当ガイド協会企画のハイキングなどには、京阪神、中京方面など主に遠方からの参加者が多いのが実情です。ご案内する立場としては地元の方々にも参加いただき、地元の良さ、歴史などの再発見をしていただきたいと考え、このたび下記の通り賤ヶ岳、木之本宿、小谷城跡の3か所を選んでご案内する企画を実施することといたしました。ぜひご参加くださいますようご案内いたします。
9月25日(水)トピックス 淡海観光ボランティアガイド連絡協議会の 湖北ブロック交流研修会が行われました
本年度の湖北ブロック交流研修会が米原観光ボランティアガイド協会の主催により行われました。長浜市と米原市の3つのガイド協会員74名が山東学びあいステーションをメイン会場に旧山東町内の史蹟を巡る研修に参加しました。開会に先立つアトラクションとして詩吟朗詠錦城会の皆さんによる「郷土の英傑 石田三成」と題して、三成公の生涯と西郷隆盛による賛辞の詩が朗々と詠じられ会場を魅了しました。続いて開会に移り、米原市と長浜市のご来賓の祝辞、会長挨拶、活動報告の後は記念講演会として伊吹山文化資料館の高橋順之学芸員による「上平寺城と伊吹山」と題した、本日の研修コースにピッタリの内容で事前勉強することができました。昼食の後は2台のバスに分乗して現地研修です。いずれも近江ゆかりの武将、京極氏にまつわる史跡である上平寺城跡と清瀧寺徳源院です。京極氏はこの城を拠点に一時湖北の雄として君臨しましたが、その後の戦乱によりその地位を失ったものの、家系は各地に脈々と続き、特に関ヶ原合戦で徳川家康の信任を得たことで江戸時代には大名として存続し明治に至りました。その家系は宇多天皇を始祖とする千年に及ぶ系譜を誇ります。この京極家の菩提寺が徳源院です。境内には歴代当主の墓標の他に、バサラ大名として知られる京極道誉手植えと伝わる桜の古木や三重の塔、「幽霊の掛け軸」もあって見どころは一杯。大名気分で座敷からきれいに手入れされた池泉回遊式庭園を眺めて、ご住職による京極家物語に耳を傾けて研修を終わりました。
9月16日(祝)JRハイキング (賤ケ岳合戦の秀吉方最前線の砦跡を巡る)堂木山砦、神明山砦、茂山の攻防を偲ぶ
出発直前には目的地の山並みが白く雨模様になるもののミストシャワー程度に終わり、曇り空の下、猛暑はひとまず和らぐ中を堂木山砦を目指す。参加者32名の大半は戦国ファンで山歩きより砦巡りに期待が集まる雰囲気の中、ガイドの解説にも気が抜けないプレッシャーが。蒸し暑い道中も鳥打山の切通しに到着。小休止の後まず堂木山砦跡に登り、現地の測量図を参考に広い砦跡を見て回る。続いて神明山砦跡へ向かう。途中にある送電塔下からは柴田方陣営も見渡せる眺望を楽しむ。神明山砦跡では遠方からの早朝出発の方もあって、少し早めの昼食をとる。昼食後は合戦の最前線の砦群で行われた前哨戦の解説を聞いていただく。この砦群は合戦の主舞台とはならなかったものの、秀吉方守備隊山路正邦への調略と離反があって、戦局が大きく動くきっかけとなりました。ここから先が前田利家、利長親子が布陣した茂山へと続くが、この所在地が明らかではなく、ここら辺りと推定される平地で進駐と離脱のドラマを聞いていただく。戦乱の中での離脱は容易ではなく、殿(しんがり)として秀吉方の攻撃を一手に引き受け戦死した横山長隆の子孫はその功績により代々加賀藩の重臣となったのです。この離脱の道を辿って権現峠付近の林道との合流点に到着し、ここからの下り坂が山道であるもののれっきとした県道なのです。到着した余呉湖ビジターセンターで冷たい飲み物などを補給し、予定より早い電車で帰路に就いて頂くことができました。
9月14日(土)JRハイキング (浅井、朝倉VS信長、家康の激戦地へ) 姉川の土手を歩き姉川古戦場を巡る
集合場所の虎姫駅前にはその名前の縁からの虎神殿が祀られ、阪神タイガースファンの崇敬篤い(?)聖地でもあります。連日の猛暑で参加者は13名となりましたが、元気に駅を出発。道中はそよ風の吹く中、サルスベリやカンナの花々に癒されて国友鉄砲の里に到着し、戦国時代国内最大の鉄砲生産地の歴史を学び、吉川英治や司馬遼太郎の文学碑も点在する街中を散策する。ここから「ちはら公園」に着いて木陰で昼食とする。ここは、朝倉、徳川両軍が激闘を繰り広げ、真柄十郎左衛門が使用した血刀が地名の起こりとされ、姉川古戦場碑などを見学して激戦を偲ぶ。ここから野村橋を渡り家康本陣の岡山に至る。ここは江戸時代に勝山と称して家康の勝利を讃えたとされます。信長が陣太鼓を掲げたと伝わる陣抗の柳を過ぎて臥龍山系の最北端の龍ヶ鼻へ登る。ここからは古戦場全体を見渡すことができ、姉川を挟んで対陣する両軍の布陣が見えるような感覚に浸る。この山の麓は浅井長政方の猛将、遠藤喜右衛門が信長の陣営の奥深く切り込んで打ち取られたとされる所です。戦場を散策した後は涼しい北郷里まちづくりセンターで休憩、古戦場ゆかりのグッズやパンフレットを手にして路線バスで長浜駅に到着、解散となりました。