5月18日(日)JRハイキング(明治から昭和にかけての産業遺産鉱山跡) 秘境の人気スポット・土倉鉱山

心配された天気も曇り空で経過し、県内外からの25名の参加者があり路線バスは満席で木ノ本駅をスタート。終点の金居原に到着し、集落の交流施設「合歓の里工房」で昼食を取らせていただく。その後国道を約30分ひたすら歩いて鉱山跡への分岐路に到着。ここからは出口土倉と呼ばれた最盛期の中心地になり、500人の従業員とその家族など1500人が暮らした街の跡で、事務所・映画館・分教場・診療所・スーパー・共同浴場など往時の賑わいを偲んでいただく。さらに進むと鉱山施設跡に到着する。銅鉱石の巨大な選鉱場跡が目の前に現れ、皆さん驚きの眼でみる。ここで土倉銅山の歴史について解説する。明治40年に岐阜県の中島善十郎氏が銅鉱石を発見したのが始まりで、その後鉱山企業が買収して採掘を始め、最初は手掘りで次いで削岩機と近代化し、運搬も大八車から馬車へさらに索道で木之本へ搬送した。最盛期には年間5000トンを生産したが、戦後の貿易自由化により海外の製品に対抗できなかったこと、埋蔵量の低下などで昭和40年に閉山しました。さらに新緑と清流の山道を約2Km進んで奥土倉へと案内する。山間にわずかに残る最初の選鉱場も新緑に包まれ、廃墟の姿との対比がまた感傷を呼ぶ。そこで集合写真を撮って下山して再び合歓の里で鉱山最盛期の人々の暮らしぶりなどの展示を見て感慨を新たにして帰路に就きました。後日すごいところへ案内してもらったと嬉しいメールをいただきました。

新緑と廃墟の対比が哀愁を呼びます
鉱山の歴史などを解説
坑道入口跡 ここから作業員を載せたトロッコが採掘に向かいました
奥土倉への新緑の道
奥土倉で記念写真
合歓(ねむ)の里で最盛期の鉱山の様子や集落の歴史を学ぶ